はじめに
鍼灸(しんきゅう)を学ぶと、必ず最初に出てくる本があります。『黄帝内経』です。
「東洋医学の原典(げんてん)」「現存する最古の医学理論書」と紹介されるこの本が、実際にはどんな道のりをたどって今日まで届いたのか。
教科書ではあまり詳しく触れられない部分を、ここでは順を追って見ていきたいと思います。
この百年ほどのあいだに、中国各地の古い墓から医学の書物が次々と出土(しゅつど)しました。
二千年ものあいだ土の中で眠っていた、誰の手も入っていない資料です。
それらのおかげで、私たちは『黄帝内経』が生まれる前の景色を、はじめて自分の目で見られるようになりました。
結論から言えば、『黄帝内経』は「ひとりの天才が書き上げた本」ではありません。
何百年にもわたって、たくさんの人が書き足し、整理し、守り伝えてきた積み重ねの書物です。
そのことが、出土資料によって裏づけられました。
1. 書名の意味
黄帝(こうてい) は、中国の神話に出てくる伝説上の帝(みかど)です。実在した人物ではありません。
古代中国には 託古(たっこ) という習わしがありました。
自分たちの学問を世に出すとき、古代の聖人(せいじん)の名前を借りて
「これは黄帝が伝えたものです」
という形にする。
今でいう著作権や個人の名誉とはまったく別の考え方で、当時としてはごく普通の作法でした。
農業と薬の本が『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』と名づけられたのも同じ理由です。
内経(だいけい/ないけい) の「内」は、外に対する内、つまり基礎編・本編といった意味合いと考えられています。
同じ目録には『黄帝外経』という書名も並んでいますが、そちらは早くに失われました。
つまり書名は、内容の権威を示す看板であって、著者を示すものではありません。
これは現代の研究者のあいだでは共通の理解です。
2. 出土した一次資料が見せてくれる「内経の前」
馬王堆(まおうたい)漢墓の帛書(はくしょ)
1973年、中国・湖南省長沙(ちょうさ)市の馬王堆三号墓から、絹(きぬ)に書かれた大量の文書が出土しました。
この墓が閉じられたのは紀元前168年とはっきりしています。以後、誰も開けていません。
つまりこの文書は、後の時代の人が手を加えることが物理的に不可能な資料です。歴史の証拠としては、これ以上ないほど強い部類に入ります。
そこに含まれていた医学書が、次の二点でした。
- 『足臂十一脈灸経(そくひじゅういちみゃくきゅうきょう)』
- 『陰陽十一脈灸経(いんようじゅういちみゃくきゅうきょう)』
書名のとおり、脈は十一本です。現在の十二経(じゅうにけい)ではありません。そして内容を読むと、後の『黄帝内経』とはずいぶん様子が違うことがわかります。
| 馬王堆の帛書(前2世紀) | 『黄帝内経』 |
|---|---|
| 脈は11本 | 経脈は12本 |
| ツボ(経穴)の名前が出てこない | 三百以上の経穴が体系化 |
| 治療法は灸が中心 | 鍼が中心、灸も併用 |
| 脈は体の中をぐるぐる回っていない | 経脈が全身を循環する |
| 五行(ごぎょう)で臓腑(ぞうふ)を整理していない | 五行と臓腑が結びついている |
同じ墓からは『五十二病方(ごじゅうにびょうほう)』という処方集も出ています。こちらには呪術(じゅじゅつ)的な治療法もかなり含まれていて、まだ理論以前の、経験と信仰が混ざり合った段階の医学が見えます。
張家山(ちょうかざん)漢簡『脈書(みゃくしょ)』
1983年、湖北省江陵(こうりょう)で見つかった竹簡(ちくかん)です。
紀元前186年ごろのもので、馬王堆の『陰陽十一脈灸経』とよく似た内容を含みます。
別の場所から同系統の文章が出てきたことで、「これは一つの墓の特殊な例ではなく、当時ひろく共有されていた知識だった」とわかりました。
老官山(ろうかんざん)漢墓と経穴人形
2012年から2013年にかけて、四川省成都市(せいとし)の老官山漢墓から、九百枚を超える医学の竹簡と、全身に経脈の線が描かれた漆(うるし)塗りの人形が出土しました。前漢の時代のものです。
この資料群は『天回医簡(てんかいいかん)』として2022年に正式刊行されました。研究者たちが注目しているのは、ここに記された医学が、『黄帝内経』とは別の系統らしいという点です。伝説の名医・扁鵲(へんじゃく)や、前漢の実在の医師・淳于意(じゅんういー、倉公)の流れをくむものではないかと考えられています。
つまり漢代の中国には、複数の医学の流派が並び立っていたことになります。
『黄帝内経』はそのうちの一つが結実したもの、という見方が有力になってきています。
武威(ぶい)漢代医簡
1972年、甘粛省武威(かんしゅくしょう・ぶい)で出土した、後漢(ごかん)初期の医学木簡です。ここには「三里(さんり)」「肺兪(はいゆ)」といった、現在も使われているツボの名前が登場します。
馬王堆(ツボの名前なし)→ 武威(ツボの名前あり)という順序は、経穴という考え方が漢代のうちに形づくられていった過程を、実物で示していることになります。
満城(まんじょう)漢墓の金鍼・銀鍼
1968年、河北省満城の中山靖王・劉勝(りゅうしょう)の墓から、金の鍼4本と銀の鍼5本(一部は破片)が出土しました。劉勝が亡くなったのは紀元前113年です。
理論の文献だけでなく、実際に鍼が使われていたことを示す道具そのものが出てきた。文献と物証が重なった、貴重な例です。
3. 『黄帝内経』の登場
書名が歴史の記録に現れるのは、『漢書(かんじょ)・芸文志(げいもんし)』 が最初です。西暦92年ごろに完成した、前漢の宮廷図書館の蔵書目録にあたる部分で、そこに「黄帝内経 十八巻」と記されています。
ここからわかるのは「1世紀の終わりまでに、その名前の本が確かに存在した」ということです。ただし目録なので、内容の要約は書かれていません。
出土資料が示す紀元前2世紀の姿と、『黄帝内経』の完成された理論とのあいだには、明らかな隔たりがあります。この二百年から三百年のあいだに、経脈が11本から12本に整い、ツボに名前がつき、五行と臓腑が結びつき、気の循環という大きな構想がまとまった。
理論が形になっていく、まさにその現場が漢代だった ということです。
これは面白い事実だと思います。もし『黄帝内経』が「大昔から完成した形で伝わってきた聖典」だったなら、その前段階を示す未完成な資料など出てくるはずがない。未完成なものが土の中から出てきたということ自体が、この本が人の手で少しずつ作られてきた実在の書物であることを、いちばん強く証明しています。
4. 『黄帝内経』とはどんな本なのか
現在の『黄帝内経』は、二部構成です。
『素問(そもん)』 全81篇 陰陽・五行・臓腑・病のなりたち・養生(ようじょう)など、理論的な土台を扱います。
『霊枢(れいすう)』 全81篇 経絡・経穴・鍼の道具・刺し方など、実技に近い内容が中心です。「鍼経(しんきょう)」の別名があります。
全体は対話体で書かれています。黄帝が問い、岐伯(きはく)が答える。この「岐伯」から、東洋医学を 岐黄(きこう)の術 と呼ぶ言い方が生まれました。
ただし、答える側は岐伯だけではありません。少師(しょうし)、少兪(しょうゆ)、伯高(はくこう)、雷公(らいこう)といった人物が入れ替わり立ち替わり登場します。
そして、誰が答えるかによって、語られる医学の色合いが変わります。
科学史家の山田慶児(やまだけいじ)は、この点に注目しました。対話者ごとに文体も理論も傾向が異なるのは、もともと別々の学派が書いた文章が、後に一冊にまとめられたからではないか。この見方は現在、広く受け入れられています。
同じ本の中に、脈診を重んじる立場と、体表の観察を重んじる立場が同居しています。
病の原因を外から来るものと見る記述と、体の内側の乱れと見る記述が並んでいるのです。
矛盾とも読めますが、見方を変えれば、当時の医学の豊かさがそのまま保存されている ということでもあります。編者は、都合の悪い説を切り捨てなかったのです。
5. 『黄帝内経』が歩いてきた道のり
紙が普及する前の書物は、写本(しゃほん)――手で書き写すことによってのみ伝わります。写すたびに文字が変わり、巻が失われ、順序が入れ替わる。『黄帝内経』も例外ではありませんでした。
以下は、その道のりです。ここを知ると、この本が「守られてきた」ということの重みがわかります。
全元起(ぜんげんき) 6世紀
現在わかっている最初の注釈者です。この時点で、『素問』の巻一はすでに失われていました。六世紀の学者が、もう完全な形では読めなかったということです。全元起の注釈本そのものも後に散逸し、内容は他書の引用から復元されています。
楊上善(ようじょうぜん) 隋唐(ずいとう)
『黄帝内経太素(たいそ)』を編纂(へんさん)しました。『素問』『霊枢』の文章を、テーマごとに並べ替えて注釈をつけたものです。これがのちに、思わぬ形で重要な意味を持つことになります(後述)。
王冰(おうひょう) 762年
現在私たちが読んでいる『素問』の形を決めた人物です。
王冰は誠実な人でした。自分がやったことを、序文にはっきり書き残しています。
- 章の順序を組み替えたこと
- 失われていた部分を、師から受け継いだ蔵書によって補ったこと
- 補った箇所には印をつけたこと
隠さずに記録した。これは学者としての良心です。おかげで後世は、どこが王冰の手によるものかを追跡できるようになりました。
とくに 七篇大論(しちへんだいろん) と呼ばれる一群(天元紀大論など)は、他の篇と文体も分量も理論も大きく異なります。運気論(うんきろん)という、天体の運行と病の流行を結びつける壮大な理論を説くもので、王冰が別系統の書物を組み入れたと考えられています。
失われた巻をそのままにせず、手持ちの資料で補って一冊の書物として後世に手渡した。もし王冰がこの仕事をしなかったら、『素問』は断片のまま消えていたかもしれません。
校正医書局(こうせいいしょきょく) 1057年〜
北宋(ほくそう)の朝廷が設けた、医学書を校訂(こうてい)するための専門機関です。林億(りんおく)らがこの事業にあたりました。
彼らの仕事は徹底していました。王冰が補った部分を洗い出し、他の古書と照合し、疑わしい箇所を 『新校正(しんこうせい)』 として本文に注記していったのです。
十一世紀の中国で、すでに本格的な文献批判(テキストクリティーク)が行われていた。 これは世界の学問史のなかでも早い部類に入ります。彼らが残した注記のおかげで、私たちは今日、どこまでが古い層でどこからが後の補足かを、ある程度まで見分けることができます。
『霊枢』の帰還 1093年
『霊枢』は、より劇的な道をたどりました。
中国国内で失われてしまったのです。ところが北宋の時代、高麗(こうらい/現在の朝鮮半島)から中国へ献上された書物のなかに、『黄帝鍼経』が含まれていました。かつて中国から伝わった本が、数百年を経て里帰りしたわけです。
朝廷はこれを刊行し、さらに1155年、南宋の史崧(しすう)が家に伝わっていた本をもとに整えたものが、現在の『霊枢』二十四巻となりました。
一冊の本が国境を越えて往復し、失われかけては誰かの手で拾い上げられる。東アジアの医学が、国をまたいだ共有財産だったことを示す、象徴的な出来事です。
6. 日本に残った、より古い姿
ここから先は、日本に関わる話です。
楊上善の『黄帝内経太素』は、中国では失われてしまいました。ところが――
京都・仁和寺(にんなじ)に、平安時代末から鎌倉時代にかけての写本が伝わっていたのです。
江戸時代後期の1820年代、医師の福井榕亭(ふくいようてい)がこれを見出し、学界に知られるところとなりました。王冰の改編を経ていない、より古い段階の本文を留めた系統として、いま世界の研究者が参照する第一級の資料になっています。
同じことは、丹波康頼(たんばのやすより)『医心方(いしんぽう)』(984年)にも言えます。日本最古の医学全書であるこの本は、当時入手できた中国の医書を大量に引用して編まれました。その引用元のかなりの部分が、中国では失われている。つまり『医心方』は、六朝(りくちょう)から唐にかけての医学書の断片を保存した箱として機能しているのです。
大陸から受け取ったものを、丁寧に写し、大切に蔵に納め続けた。日本の写本文化のそうした地道さが、結果として東アジア全体の医学史に貢献することになりました。
日本の鍼灸が持つ、静かな誇りの一つだと思います。
7. いま、どう理解されているか
現代の研究が到達している見方を、簡単にまとめます。
成立時期 ―― 単一の年代を特定することはできません。中核部分は紀元前2世紀から紀元後2世紀ごろに書かれた文章の集積で、その後も唐(王冰)・宋(校正医書局)の手が加わっています。
著者 ―― 複数。おそらく複数の学派。だからこそ内容に幅と厚みがあります。
性格 ―― 一人の著述というより、アンソロジー(選集) に近い。漢代の医学思想を集めて整理した、一種の大全です。
価値 ―― これは変わりません。むしろ、成立の経緯がわかったことで価値の性質がはっきりしました。
『黄帝内経』の価値は「大昔から一字一句変わらず伝わった神聖な書」であることにあるのではなく、二千年にわたって多くの人が読み、注釈をつけ、失われれば探し、補い、写し続けてきた ――そのプロセスそのものにあります。
書き換えられた形跡があるということは、それだけ真剣に使われ続けたということです。誰も使わない本は、書き換えられることもありません。
8. 臨床に立つ者として
歴史を知ることは、足元を確かめることに似ています。
『黄帝内経』が説く体の見方――全体をひとつながりとして捉える、季節や環境との関係で不調を考える、症状の背後にある巡りの乱れを診る――こうした発想は、二千年前の人々が長い観察の末にたどりついたものです。
そして現代の私たちは、当時にはなかった道具を持っています。解剖学、生理学、統計にもとづく臨床研究。それらは古典を否定するものではなく、古典が言おうとしていたことを別の言葉で確かめ直す手段になり得ます。
古い本を敬いながら、無条件には寄りかからない。書かれた経緯を知ったうえで読む。それは古典への不敬ではなく、むしろ最も誠実な向き合い方だと思います。
二千年前、名前も残らない誰かが、患者の体に触れ、脈をとり、気づいたことを書き留めた。その積み重ねが竹の札に記され、絹に写され、紙に写され、国境を越え、火事や戦乱をくぐり抜けて、いま私たちの手元にあります。
土の中から出てきた竹簡が教えてくれるのは、まさにそのことです。
参考文献
日本語
- 山田慶児『中国医学はいかにつくられたか』岩波新書、1999年
- 山田慶児『中国医学の起源』岩波書店、1999年
- 小曽戸洋『中国医学古典と日本 ― 書誌と伝承』塙書房、1996年
- 小曽戸洋『新版 漢方の歴史 ― 中国・日本の伝統医学』大修館書店、2014年
- 石田秀実『中国医学思想史 ― もうひとつの医学』東京大学出版会、1992年
- 丸山敏秋『黄帝内経と中国古代医学 ― その形成と展開および方法』東京美術、1988年
- 小曽戸丈夫・浜田善利『意釈黄帝内経素問』『意釈黄帝内経霊枢』築地書館
- 家本誠一『黄帝内経素問訳注』医道の日本社
- 東洋療法学校協会編『新版 東洋医学概論』医道の日本社
中国語
- 馬継興『馬王堆古医書考釈』湖南科学技術出版社、1992年
- 銭超塵『黄帝内経太素研究』人民衛生出版社、1998年
- 四川省文物考古研究院・成都文物考古研究院ほか編『天回医簡』文物出版社、2022年
- 甘粛省博物館・武威県文化館編『武威漢代医簡』文物出版社、1975年
- 張家山漢墓竹簡整理小組『張家山漢墓竹簡』文物出版社、2001年
英語
- Donald Harper, Early Chinese Medical Literature: The Mawangdui Medical Manuscripts, Kegan Paul International, 1998
- Paul U. Unschuld, Huang Di Nei Jing Su Wen: Nature, Knowledge, Imagery in an Ancient Chinese Medical Text, University of California Press, 2003
- Paul U. Unschuld & Hermann Tessenow, Huang Di Nei Jing Su Wen: An Annotated Translation of Huang Di’s Inner Classic – Basic Questions, University of California Press, 2011
- Paul U. Unschuld, Medicine in China: A History of Ideas, University of California Press, 1985
- Vivienne Lo & Christopher Cullen (eds.), Medieval Chinese Medicine: The Dunhuang Medical Manuscripts, RoutledgeCurzon, 2005
一次資料(原典)
- 『漢書・芸文志』(班固、1世紀)
- 王冰『重広補注黄帝内経素問』(762年)
- 林億ほか『新校正』(北宋・校正医書局、1057年〜)
- 楊上善『黄帝内経太素』(仁和寺本系統)
- 史崧『黄帝内経霊枢』(1155年)
- 丹波康頼『医心方』(984年)
